リモートワークを6ヶ月した結果、考える時間が減った話

会話

こんにちは。2021年からフルリモートになり、東京に引っ越したにも関わらず、電車に乗る回数がまったく増えていない小幡です。
大きな本屋にいくのにも歩いて行けるのは非常にありがたいですが、暑い、寒いが厳しいときは逆に電車にのりたいと思ってしまう今日の子頃。タクシーもたくさん見かけることができますが…。

工場勤務三交替で、夜勤明けの朝の帰宅途中に半分意識を失いながら、よく家に変えれてたなぁと思う過去を振り返ると、土日祝日固定休日になり、通勤ラッシュにも揉まれない今の仕事環境は最高かもしれません。仕事があることに感謝しつつ、しっかりと仕事をしていかなければいけませんねぇ。

しかし、リモートワークを6ヶ月した結果、人とのコミュニケーションは激減し、会話がなくなったことにより、人はどんなことを考えて居るのか?これから世界はどうなっていくのか?という無駄な思想を巡らせる時間が減ってしまったような気がしたので、書き留めてみます。

考えずに、結果だけを受け入れる世界

数年前、仕事場である工場へ向かう道は、車での通勤だったので私にとっては中国語を勉強したり、ラジオを聞いたり、くだらない事を考えたりする時間がある道でした。

勤務時間中は、数十名ほどの同じ会社員と話をするわけですが、この時間が貴重だったのかなぁと思います。

というのも、人と人ですから他愛もない話でも色んな考えが交差していたのだと思います。なぜこの人はこの話題をしているのか、どういう話の展開が望ましいのか、最近の流行りと言われているものは実はそれほど流行っていないのかもしれない・・・。など、自分以外の人が何を考えているかによって、自分の中で新しい考えが浮かび上がってくるものでした。

その時間がなくなるということは、自分が新しく考え付くものは自分だけの世界で完結しているので、人からみた違う考えが全く入っていない結果になってしまっていると思います。

新しいイノベーションは1人の考えだけでは達成不可能な気がします。革新的じゃないことを考える時にも、誰かと話をすることで見つかるものだと考えると、その先を考えることをどうして一人で出来るのでしょうか?

動画やテレビの視聴は思考の偽装

私自身テレビやYouTubeの視聴時間が増えたと思いますが、動画を見ていると能動的には何も行動していないのに、何かをした気になってしまうのは不思議なものです。

まずやめたいことは動画とテレビの視聴です。

もっともリラックスした時間に新しいアイデアが生まれるということを聞いたことがありますが、それはおそらくゆったりとした雰囲気でお風呂に入っている時や、ベッドで横になっている時であり、YouTuberが何か面白いことやっているときではないと思います。

しかしながら、無意識的に動画を見てしまうのはなぜなのか…。

人は誰かとコミュニケーションを取っていなければ生きていけないと仮定すると、この外出自粛の時代に人とコミュケーションを取っているような気がする簡単で最も手軽な方法が動画やテレビの視聴かもしれません。

無駄だと分かっていても、ついついやってしまうことはこれだけではありませんが、どうして無駄な事をしてしまうのでしょうか…。不思議ですね。

AIを使用した話相手の創造

何かの記事で、AI技術を使用した話相手になってくれるアプリが完成したと見ました。まだ体験したことはないですが、普通に人と会話出来ているような感覚が味わえるのならば、もはや孤独感から人とのコミュケーションをする欲するような状況起こらなくなるのかもしれません。

IBMの量子コンピュータが神奈川県に配備された記事もどこかでみましたが、その設置場所がクリーンルームの心臓部にほぼ絶対零度の空間ということで、最新技術を維持するのは苦労が絶えないなぁと思う今日この頃です。

私はこうしてネットニュースを読み漁るわけですが、ここから人と何か会話をしないと発展性がほとんど無いと感じている訳です。引き出しが少ないだけかもしれませんが、自分の引き出しを増やすよりも、まったく世界観の違う人と話をした方がコスパが良いようにも思います。

AIの活用方法にしても、自分が考えられる範囲でしか新しい創造はできないと考えますので、まったく別の思想の人と話すことで全く別の角度でAIの良さや悪さが見えてくるのだと思います。

コーディングは1人でするものではない

これらの様に現実世界では人と人とのコミュニケーションが盛んに行われたことで、今の世界の形があるように、コードを書くことは人と人とのコミュニケーションが存在するからこそ、文法や規則が存在するのだと考えます。

つまり自分1人で最も良いコーディングと考えるものは大抵最も良いコーディングではなく、多数のメンバーで議論して作った物がより良いものに近づくものだと考えます。

結果として動作しないコードは論外ですが、書きづらかったり読みづらかったりするのは、自分のスキルが足りないと同時に、それらを書いたメンバーの意図が含まれるためではないだろうか?と最近考えています。

複数人で書いたコードが間違っている様に見える時は、大抵自分が間違っている時だったり…。

この記事を書いた人

小幡 知弘

1990年茨城県神栖市生まれ
2013年大阪芸術大学卒業
Python×Webエンジニア