陶芸家とプログラマー | 大学を卒業して10年経って思うこと

こんにちは。プログラマーのような事でお仕事を頂き、生活をしている小幡です。

気がつけば、大阪芸術大学を卒業して10年経つので、今思うことを書き残しておこうと思います。

自分の場合は、2013年に大学を卒業したのですが、その時に10年後の未来はまったく予想できませんでしたし、おそらく1年先もどうなるかわからないような生活をしていたので、将来に不安を抱いている大学生などに、少しでも情報提供のようなことができれば良いかなとも思っています。

まずざっくり陶芸関連の自己紹介をすると、私は現在陶芸活動をしていません。八木一夫さんの《ザムザ氏の散歩》とイサムノグチさんのような文脈が好きな人とは話が盛り上がるかもしれません!器も好きですが、あまり知られていないような陶芸も好きです。卒業制作は黒陶焼成をしていましたが、自分のPCの中に画像が残っていないことが悔やまれます。

黒陶について興味がある方は調べてもらうと幸いです。ザックリ説明すると、完成品は低音焼成で、食器としては使えないやきものです。

私の知らない分野の話などもウェルカムなので、ぜひお話しを聞かせてください!気軽にコメントなどいただけると嬉しいです。お待ちしております。

モラトリアム学生時代

さて、冒頭にもお話しした通り、現在大学生の方へ向けた記事としたいので、自分の大学生時代から振り返ってみたいと思います。

2009年から2013年はリーマンショック後であり、関東大震災が起こった年が含まれています。

そして2009年ごろからスマートフォンも普及してきて、他大学との交流はfacebookで活発に行われていた印象があります。

しかし、リーマンショックや関東大震災以外では特に大きな事件などもなく、安定したハッピーな大学生活を送れていました。実家が茨城県で色々流されたり、インフラが止まったりはしていましたが、家族は無事でした。

よく言われることかもしれませんが、4年間は社会とも切り離され楽園で過ごすような夢の時間であったことは間違いないと思います。もちろん在学中は進路に不安があったり、人間関係でトラブルもありましたが。

それと同時に、あんなにたくさん時間があったのにも関わらず、結局学生起業も果たせず、何か成果を残したわけでもなく、卒業制作が評価されたわけでもなく、個展が決まるわけでもなく、教員免許が取れるわけでおなく、漫画家としてスタートを切るわけでもなく、ただ日々を過ごしていただけとも言えます。

ただ普通に日々を過ごしていただけかもしれませんが、その普通の生活も、一方では幸せなことだったと思わずにはいられません。コロナで行動制限されたり、戦争が起こって国内にいられなくなったりするわけでもなかったので。

陶芸について考えるキッカケ

大学2年生くらいまでは、特に何かに熱中することもなく、手当たり次第にやりたいことをしていました。今思えば、当時の私は目標や、やりたいことがない人間だったかもしれません。

というのも、大学受験ではそれなりに美術予備校に通い、筑波大学芸術学群と、武蔵野美術大学を受験して不合格となり、それなりに闇落ちしていた記憶があります。

柔道部、漫研、吹奏楽団でそれなりに遊び、寮生活では麻雀をしたり、ひたすら鍋をしてみたり、目標の定まっていない生活をなんとなくして過ごしていました。

そんな陶芸とはまったく関係ないところに楽しさを見出していたとき、陶芸コースの友人から、「イケヤン」や「陶ISM」なるイベントの話を聞かせてもらいました。おそらく、その頃から真剣に陶芸とは何か?と考えるようになったのだと思います。

それまでは、「とにかく作ることが楽しい」と手を動かすことに注力していましたが、少しずつ「自分がしていることは何か?」を必死に考えるようになっていきました。

機械になるか、機械を作るか

少し話は脱線します。

陶芸から離れプログラマーになってよく聞く言葉なのですが、「機会の代わりをするな」という言葉があります。これは、「手入力でポチポチと何かをパソコンに打ち込むことには意味がない」、ということを表しています。

例えば、エクセルで表を作る場合、手入力せずにプログミングして一発で膨大な情報を処理することが求められます。機会の代わりになって手入力する必要はありません。手入力していると、遅く、ミスが起こり、むしろ怒られます。

私は大学時代に1日に100個の器を作ることに注力していた時期がありましたが、今にして思うと、100個の器を手作業で作ることに価値を見出そうとしていたことに「疑問」を持つべきだったかもしれません。それは「機械の代わり」をしていただけなのではないか?と。

工業製品と「味」

やきものは、制作工程がとても繊細で、少しでも油断すると出来上がりの作品が意図しない形や色になって出てきます。

この時、私は「味」という言葉をよく使っていましたが、陶芸を辞めた後、パン工場で三交替勤務をして、「失敗」と「歩留まり」についてたくさん勉強させて頂きました。

パン工場での変形や変色は「味」とはなりません。そしてコンビニに並んでいるパンに、それらを求めているユーザーはいません。

現場はシビアで、製品として出荷されるパンの大きさはミリ単位で管理されていることを知っていれば、作る作品の見え方も違っていたかもしれません。

また余談ですが、会社でロボット研修も受けさせてもらったことで、産業用ロボットの凄さと、危険性についても学ばせて頂きました。大学時代を思い起こせば、よく労災的な大きな事故が起きなかったなと思ったりします。ドレン機で手を挟むなど。

日本国内だけでも1日に2〜3人ほどが工場で亡くなっている現状を説明されてもあまり実感が湧かないのですが、危険は意外と身近にあるものです。くれぐれもご安全に。

卒業制作に取り掛かる

卒業制作を作り始める頃には、金理有さんや、村上隆さんに強く影響を受け、「死と陶芸」をコンセプトに作品作りをしていました。

「死」という重いものを中心にすえた理由は、当時はマーケティング的に、美術、アートの領域に踏み込むために必要な要素であると考えていましたが、ただたんに自分が鬱っぽくなっていただけかもしれないなぁと今になって思います。結果的にすぐ陶芸を辞めてしまうので。

それと当時、陶芸コース内で少し話題になっていましたが、私たちの卒業制作では「死」のようなものを作品に落とし込もうとする人が多いという話がありました。10人中の3人くらいだったと思いますが。その時はまったく気にもとめませんでしたが、日本の年間自殺者数が1万人ほどいるということと、何か関係があるかもしれないとうっすら考えていたりします。

モラトリアムも出口が見え始めると、よくわからない不安感が押し寄せてくるのは今の学生も同じなのでしょうか?実際に話を聞いたことがないのでわかりませんが、そういう状況ではないことを祈ります。

それと余談ですが最近になって、これまでお世話になってきた方々への謝罪活動を始めています。大学の4年間と卒業の10年間は、本当に最低な人間だったと思い、反省し、謝罪しようと会える人には会い、謝罪できる人には謝罪しているのですが、なかなかうまく謝罪できないものです。

2013年卒業と自分の状況

無事に大学を卒業できたのは、両親や友人、協力してくださったたくさんの人たちに感謝しなければなりません。様々な問題を起こし、無事に卒業できたのは、自分1人では難しかったと今では感じますが、当時はそのように考えられていなかったでしょう。

卒業後は憧れの先輩であり、ロールモデルでもあった金理有さんのもとで2年ほどお世話になりました。感謝してもしきれませんが、そのご好意を裏切ってしまった私が情けないです。すみません。

2015年頃にはすっかり作家として生きていく自信がなくなっていたように思います。

ここでもたくさんの方に応援や期待して頂いていたにも関わらず、そのご好意を裏切る形で全てを投げ出して突然実家に帰ることにしました。もはや謝罪しても許されることではないと思いつつも、今もどこかで謝罪できないものかと考えてしまいます。

社会人生活でもよく言われることですが、一度失った信頼は取り戻せないと痛感しています。

失敗の中でも、学生起業で失敗するような、良い失敗もあるかもしれませんが、卒業後の私の人生は悪い失敗ばかりで、とても信頼回復できるようなものではありません。

逃げ癖のようなものに見えると思いますし、最初の頃は自分でも逃げ癖があるような気もしていました。それを激しく後悔したりもしました。

ですが、今はそれほど気にしないように心がけています。「逃げても良い時代」なので、逃げないで自殺したりするより、はるかに良いと思っています。

日本人だけでも1億人もいるのだから、100人くらいに嫌われても構わない。

「無理なものは無理!」と、とあるゲーム実況者さんもそう言ってましたし。

日本は良い国なので、生きていればそれなりに仕事もありますし、なんだったら生活保護もあるわけで、1つの人生に固執しなければ、普通の生活が送れます。過度に不安を感じる必要はないと今では思いますが、当時は不安しか見えていなかったのかもしれません。

孤独、挫折、就職

望まない孤立・孤独はよくないと強く感じます。

大空幸星さんのNPOに寄付してみたりするくらいには、孤立・孤独には関心があります。

これは自分が卒業後に孤独だったからかもしれません。望まない孤立・孤独はうまく回避して欲しいと強く願います。。

もしも、望まない孤立・孤独に悩み、相談先がわからない方は、以下に相談窓口のリンクを貼っておきます。

そして先ほども話したように、作家としての自信の喪失。

卒業前までは、自信過剰なくらい自信を持っていたはずなのに、いつの間にか自信が全くなくなっていたことが今でも不思議です。2014年頃には絵画でしたが初めて作品展で賞を頂いたこともあり、やっと光のようなものが見え始めていたようにも記憶しているのですが、正直よく覚えていません。

また思い出したら話そうと思います。

そして挫折後には就職活動もしました。それなりにたくさんしました。でも東京で全く知らないギャラリーさんに飛び込みでポートフォリオを見てもらったりするよりも、履歴書を書いて面接受ける方がとても気が楽でした。

先ほど例で出したパン工場への転職では「陶芸やってたんで、こねる事には自信ありますよ!」と陽気に語り、笑いを取れるくらいには面接も上手くやれていたのかなと思います。結局は採用してくださった企業の皆さんのおかげで入社できたに過ぎないのですが。

それからはしばらく、一般社会人としてどう生きていくかについて真剣に考えていたと思います。

初めての会社員生活

一番最初に就職した先が、運良く自分が好きだったサブカル系だったので関連作品、アニメ、漫画に注力していました。なかでも、漫画やアニメの歴史について深く考える機会がありました。

戦前、戦後の漫画を読む機会はそれまでありませんでしたし、まさか自分が漫画の歴史を学ぶことになるとは想像もしていませんでした。

大学時代は、「工芸と工業」の歴史を学ぶことが楽しかった記憶があります。廃藩置県あたりから明治政府の万博出品や、そこから八木一夫さんらが起こす活動にはものすごくロマンを感じていましたし、そういう100年単位の大きな時の流れの中で、自分が陶芸をしていることにワクワクしていたのと同じように、戦前、戦後の歴史的背景を感じながら当時の貸本漫画を読むことにワクワク感を感じていました。

今にして思うと、産業革命、印刷技術の向上やアニメの発達、漫画のデジタル流通によって劇的に成長していった漫画産業を手本に、うまくデジタル流通を使えていない工芸分野をDXすることができれば、先細りの業界に新しい風を起こせるのではないか?などと思ったりしています。もちろん賛否両論、様々な意見あると思いますが。

今ではこれらのような考えを持つことができたのは、就職した先でお世話になった方々のおかげだと強く感じていますが、当時の私の態度はそうではなかったことに、激しく後悔しています。

他にも大規模工場での仕事の話など、手仕事の意味を改めて考えさせられた経験などもありましたが、それはまた次回にお話ししたいと思います。(略歴については詳細プロフィールを参照ください。)

プログラマーとして楽しく過ごす

なんやかんやあって、30歳を前に再び都会に戻ります。

戻った時点では何も仕事はありませんでしが、今は人並みの生活ができるレベルまで回復しています。

人生の中では、一番自分の時間がもらえていますし、お金にも困っていないので、楽しく過ごしています。

コロナも落ち着き海外旅行にも行けそうなので、この8月と11月に海外旅行を計画していたりと、やりたいこともできています。

やりたかったことの中の1つに、プログラマーとして1つのサービスを自分で作る、ということも実践しています。

すでに4つほどサービスを展開しては、失敗を繰り返してマーケティング的に重要なことや、サービスをユーザーに使ってもらうための知見も増えてきました。これらのように試行錯誤しながらものづくりをしていくのは、陶芸をしていた頃を思い出します。

東京には陶芸教室もたくさんあるので、何度も行ってみようかと思いつつ、1度も足を運んでいません。やはりどこかで自分が直接陶芸作品を作ることに抵抗があるのだと思います。それは後悔や挫折からくるものかもしれませんし、トラウマ的に避けている部分もあるのかもしれません。

美術、工芸、陶芸への思い

2020年頃に六本木で行われた「STARTS展」に行ったことを覚えています。

おそらく緊急事態宣言前だったと思いますが、記憶が定かではありません。

そこで初めて村上隆さんの作品をじっくり鑑賞しました。

『芸術起業論』は私のバイブル的な本で、その中にあった《ヒロポン》の制作話を何度も読み返した記憶があり、本物をみた時には圧倒されました。もちろん他の作品にも圧倒されたのですが、私の浅い知識では到底読み取れない文脈に圧倒されました。

憧れだったり、尊敬だったり、色んな感情が今でも沸々と湧き上がってきますが、「自分はアーティストを目指す」と気を張っていた頃より、より冷静にそれらの作品と対峙できるようになったかもしれません。

今はもうほとんど美術的な、工芸的な作品と呼べるものを作っていませんが、作品を作ることだけが芸術、美術を作り出しているわけではないとも考えるようになりました。

それは、作品を作りだす前や後に関わる人がたくさんいるということです。

人間社会なので鑑賞する人はもちろん、作品を運搬する人、作品を批評する人、作品を買う人。全て人と人とのつながりがそこには生まれます。その重要なことをやっとほんの少しだけわかった気になりました。

母のガンと葬式

2023年4月25日に母がガンのため亡くなりました。

ガンだとわかった2022年くらいから月に1度くらいのペースで実家に帰っていたのですが、その時に兄の車で帰省していました。

それほど仲の良い兄弟とは言えなかったのですが、月に1度往復6時間くらいを運転席と助手席という距離で一緒にいると、色々と話をするもので、一緒に「テリノス」というサービスを行うことになりました。

色々あって今の状況となった今の私が、やきもの関連のサービスを作ることに少し矛盾を感じていましたが、兄に一番得意なことをするべきだと後押ししてもらったことが大きかったように思います。

母と母の友人は大阪でグループ展をしているとこまで、わざわざ茨城県から来てくださり、私の作品を購入してくれた数少ない理解者です。

そんな母の友人と葬式会場で再会した時、私は自分の人生についてもう一度深く考え直しました。

これまでに母と母の友人をはじめ、たくさんの人が私を応援してくださいました。

その恩返しはどうすればできるだろうか?

今でも正解はわかりませんが、常に自問自答するしかないと思っていますし、その答えの1つになるかもしれないと思っているのが「テリノス」でもあります。以下にテリノスのリンクを貼っておきます。

私も誰かの作家活動の応援ができれば幸いです。

卒業制作で親族全員分の骨壷を作っていた私ですが、いよいよ母が亡くなるのだなぁとガンの話を聞いた時から覚悟していましたが、やっぱり納棺する時に泣きました。

友達の大切さに気づき感謝

10年も経つと以前の友達との交流がなくなったり、新しい友達ができたりするものです。

私の場合は令和元年に中国語ブームが起こり、中国人の友達がたくさんできました。

池袋の中華街に行って、日本人は食べないものを食べてみたり、上海に遊びに行って中国人の優しさと恐ろしさを体験したりしていました。

これらの交流はコロナによってほとんどなくなってしまったのは残念です。

大阪芸術大学時代の友人とは細く長く交流を続けていて、その友人たち、先輩方の優しさに触れてなんとか生きながらえています。

友達は大切にしなければなりません。特に私のように人とのコミュニケーションが上手くなくて、人を傷つけてしまうような人間は、自分を改善することを忘れず、友達を大切にしなければなりません。そうしないと、孤独老人になる前に、大変なことになると思います。

友達は大事。ありがとう

まとめ

最後まで読んでいただきありがとうございました。何かの参考になっていれば幸いです。

この10年間の人生をまとめると、人の好意や期待を裏切ってはいけない。できない時はできないと言う。人に感謝する。他にもたくさん重要なことはあるかと思いますが、今日はここまでとします。

お付き合いいただきありがとうございました。また次回もお会いできることを楽しみにしております。

おわり

この記事を書いた人

小幡 知弘

1990年茨城県神栖市生まれ
2013年大阪芸術大学卒業
Python×Webエンジニア